おばあちゃんのにわ

 昔の記憶には色がない、と言われることがありますが、それはカラー写真がない頃の時代であり、スマートフォンでいつでも写真が撮影できる時代にあってはもう古い考え方かもしれません。確かに私の両親と過ごした古い記憶は脳内にカラーで焼き付けられていて、時間が経過していてもモノクロになることはありません。しかし、祖父や祖母となると、モノクロとしての記憶が蘇ってきます。
 幼少期、徒歩10秒という近所に住んでいた、私の祖父と祖母は私をとても可愛がってくれました。モノクロで残っている私の記憶には、いくつかの場面が鮮明に焼き付いています。長い廊下の先にある、暗い納戸でいつの間にか寝てしまった私を探しにきてくれた祖父、祖母に手を引かれて歩いたこと。どれも流れる映像ではなく、静止画として私の記憶として留まっています。映像という媒体ではなく、残っているものが写真だから静止画になるのでしょうか。人間の記憶というものは不思議なものです。
 数々の賞を受賞した名作『ぼくは川のように話す』の著者であるカナダの詩人、ジョーダン・スコットの新作『おばあちゃんのにわ』は、彼の幼少期の記憶を元にした絵本。生まれた時にはすでに祖父が亡くなっていたというジョーダン・スコットは祖母と交流を深めたそうです。
 彼の祖母はポーランドからの移民で、あまり英語をうまく話すことができなかったため、身ぶりや手ぶりで、そして、さわったり、笑ったりして、いいたいことを伝えあいました。本書でも言葉は決して多くありません。描かれるのは言葉にたよらない二人のやりとり。
 たとえば、長いあいだ食べものがなくて困ったことがある祖母は、「ぼく」が食べこぼしたオートミールをひろいあげて、それにキスして、「ぼく」のおわんに戻す。たとえば雨の日に、ゆっくり道を歩き、ミミズを捕まえて野菜を育てている庭に放ちます。これらの行為では言葉を交わすのではなく、その行動、所作によって、メッセージを伝えています。
 これは幼少期、吃音に苦しんでいたジョーダン・スコット=「ぼく」にとって心地よい時間だったのではないでしょうか。『ぼくは川のように話す』では、吃音による悩みが描かれていましたが、本書を読むと、祖母と過ごす時間が特別だったことがわかります。
 このような美しい記憶を照らし出す上で、印象的な「光」を描く、シドニー・スミスの絵力の影響はとても大きいように感じます。 モノクロでの美しさというものもありますが、 ジョーダン・スコット=「ぼく」と祖母の記憶には、鮮やかな色彩と「光」による表現ががふさわしい。画面いっぱいに穏やかな愛情が溢れかえっています。本書を読み、私の祖父の祖母の記憶にも「光」が差し、色彩をもたらすかのようです。
 ぜひ、前作『ぼくは川のように話す』と共に手に取っていただきたい絵本です。

 

(書評文 | mewl 佐々木新)

 
 

『おばあちゃんのにわ』

文: ジョーダン・スコット

絵: シドニー・スミス

訳: 原田 勝

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