ぼくは川のように話す

 小さな頃はあまり話すのが得意ではなく、相手に伝わらないことを恐れて、たとえ改善してほしいことがあったとしても自分が我慢すれば良いと思ってしまうタイプでした。その結果、話す機会も限られてくるから、周囲からの注目が集まっている中、話し始めるとどもってしまうということが度々起こりました。今でいうところの吃音症とでも言うのでしょうか。あの頃よりはだいぶ改善されて、現在では言語化することも仕事の一つになっていますが、やはり話して伝えるということがあまり得意な方ではない、と自分では思っています。
 そのような経験があるせいか、同じように言葉をうまく伝えられない人と話すことは苦ではなく、むしろ、楽しい感覚があります。特に小さな子どもと話しているとよく感じますが、文章として成り立っていなくとも、切れ切れに出てくる単語や、表情、態度などに鑑みて、「あなたの伝えたいことはこういうことなのではないか」ということを言葉にしていくと、その子とシンクロし、少しでも理解し合えたような気がして心地よさを感じます。
 過去を振り返ると、なぜあの頃はうまく話せなかったのか不思議でしょうがないのですが、周囲の認識も圧力も今とはかなり異なっていたような気がします。たとえば、クラスの中で何かしらの発表をする際には、余計ひどく吃音が出てしまい、周囲の人から笑われてしまう経験がありました。今でこそ、言語障害の一つとして認知されつつあることですが、今から数十年前はそうした意識も希薄で、しっかり話せという空気感が強かった。そして、先生などの大人もそうした圧力に加担していたように思います。
 子どもにしたらこれほど辛いことはありません。うまく伝えようとしてもそもそも言葉を多く知っている訳でもないし、体験自体も少ない。周囲からも話せ、話せと圧力がかかり、余計にうまくいかなくなる、という負のスパイラルに陥ってしまいます。私の場合は、書くことで自己表現することが多く、次第に周囲にも私のキャラクターが伝わり虐められることはなかったのですが、うまく話せない同級生には虐めの対象になる人もいました。子どもにしたら死活問題です。
 幼い頃に出会いたかった本というのがいくつかありますが、今回ご紹介する『ぼくは川のように話す』という絵本もその中の一冊です。文 ジョーダン・スコット、絵 シドニー・スミスによってつくられた本書は、うまく言葉を話せない吃音者のお話。単純に頑張ろうとか、そういった話ではなく、吃音自体をアナロジー化して、詩的なレベルまで昇華させる美しい絵本です。
 本作は著者のジョーダン・スコットの幼少期の実体験が元になっており、「障害をもつ体験を芸術的な表現としてあらわした児童書」に与えられる、シュナイダー・ファミリーブック賞を受賞しています。あらすじは、吃音者である主人公が、父親に川に連れて行かれます。そこで、父は、話すことと川の共通点を息子に教えます。
「おまえの話し方と川の水の流れは一緒だよ。川には河口があり、合流点があり、流れがある。川というのは、永遠に、自分より大きなもの、広い場所をめざして、気負わず、たゆまず流れていく。ところが、川は流れていく途中でどもることがある」
「川はあわだって、なみをうち、うずをまいて、くだけている。おまえは、川のように話してるんだ」
 自分の行いや自然に出てしまう癖が小さな頃はとても大きなものに思えて自己嫌悪に陥ってしまうことがありますが、社会に出て俯瞰してみると、そのようなことは全然重要でないことがわかってきます。少なくとも死を考えたり、精神を病んでしまったりということは希薄になります。この視点に立つには、アナロジー化すること、相対化することが大切だと思います。
 実際、ジョーダン・スコットは自分が話す時、父親から言われた川を想像することで、自分の口が勝手に動くのを感じて、話すことが楽しくなっていったようです。流暢に話すことだけが素晴らしいのではなく、吃音という話し方自体にも個性があり愛おしいのだと。そこには言葉と音と体が絡みあった、個人的な苦労の塊があります。
 自分にしかわからないものを言葉にする時に、イメージがあることは表現の営みを豊かにします。本書が素晴らしいのは、そのような視点の気づきを与えてくれること。芸術的な詩や絵というものが、ある日常の行為や光景に別の視点を授けて、相対化させることでその美しさや愛おしさ、あるいは愚かさというものを浮き彫りにするように、本書もそうした芸術的感性を授けてくれます。
 大人にとっても学ぶべきところが多いにある本ですので、ぜひ子どもと一緒に読んでみてください。
(書評文 | mewl 佐々木新)

 
 

『ぼくは川のように話す』
文: ジョーダン・スコット
絵: シドニー・スミス
訳: 原田勝

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