へいしのなみだ

 人間の記憶はとても曖昧なもので、客観的事実を自分に都合よく書き換えたり、置き換えたりするものですが、幼少の頃の記憶ともなれば、そのようなことが頻繁に起こってきます。幼い頃に時をともに兄弟や友人に、幼少期の記憶を話してみると、「そうではなかった、こうだったよ」と言われることもありますし、反対に私自身が指摘することも多い。
 幼少期に読んだ絵本も割と記憶が曖昧です。絵本の表紙はしっかり覚えているけれども、内容となると結構覚えていない。インパクトがある物語のラストなどを忘却していることが多く、けれども意外にも物語としてはあまり重要ではないディテールの方が覚えていたりします。
 こぐま社から発刊されている『へいしのなみだ』も私にとって物語の記憶は曖昧だけれども、いくつか忘れられないシーンを持った特別な絵本です。私の実家は、父が絵本を販売していたということもあって、いつも新しい絵本が入荷してくるという、こどもにとっては夢のような環境だったのですが、その中でも印象深い一冊でした。
 父はクリスマスシーズンとなると大量の絵本を我が家に持ってきましたが (そのいくつかはこどもたちに読み聞かせて反応を見ていたように思います)、イエスキリストの生誕を題材とした『へいしのなみだ』もそのようにしてやってきたことを覚えています。紫がかった深みのある青色のバックカラーに発色の良いピンクカラーのタイトルテキスト、跳ねるように飛ぶ男の子のイラストレーションが入った表紙は、こども心に深い印象を与えるものでした。どこか重く、悲しみや苦しみを感じさせますが、それでもそれらを受容するような絵が対照的で何とも感情を言葉にすることが難しかった記憶があります。
 あの頃、『へいしのなみだ』を読み、何を想ったのか明瞭な記憶はありませんが、ページを繰りながら、かつて感じたであろう感覚を思い出しました。私の両親はクリスチャンでしたので、クリスマスは少なくとも日本国内の世間一般の家庭よりは特別な1日(そのシーズンといった方が良いかもしれません)でした。イエスキリストの生誕を祝うことで原点に還るというか、一年間の多くの日常で忘れてしまった大切なものを取り戻すよう、愛と慈悲に満ちた、神聖で新鮮な心持ちでその日を迎える。ある種、特別な儀式を行う感覚がありました。
 そのような特別なクリスマスシーズンを我が家では、厳かに、慎ましく迎えることが当たり前になっていましたが、友人の家のクリスマスパーティに呼ばれていった時には少なくないカルチャーショックを受けました。クリスマスというものが非常にポップに消費されており、ほとんどイエスキリストの生誕を祝うことが形骸化していたからです。友人宅から帰宅している道中は、何ともやりきれない感情が芽生え、自宅に戻ってもそれは長く私の心身に取り付き、渦巻き続けていたことを覚えています。その日の夜だったか、翌日だったか定かではありませんが、手にとって読んだのが『へいしのなみだ』でした。読み終えて、すっと心のざわめきが消え、平穏な心持ちになったことが印象深く残っています。
 空に帳がおり、どこか物悲しい世界。死と生が拮抗した世界だからこそ、誕生の重みが輝きだす。物静かで、力強い生命の力。『へいしのなみだ』には、そのような生命の原点というものが描き出されています。そして、それを本当に理解するには、静寂の時が必要であるということが雄弁に語られているような気がしました。(当然ですが当時はこのような感覚を言葉にできる筈もなく感覚的に受け取っていた)
 『へいしのなみだ』の中で描かれている、兵士から流れるなみだのシーンや兵士にみずを飲ませるシーンなど強烈に印象に残っている断片が、幼少期の感情を浮き上がらせ、あらためて絵本の持つ力に驚きました。もしかしたら日記や玩具などにも当てはまるかもしれませんが、絵本には、当時抱えた感情も織り込まれて保存されているようです。きっとそれは個別的な記憶や感情だけでなく、人類共通の原初的なものも含まれているように思います。
 静かな夜が多くなるクリスマスシーズン。生命の重みや尊さを体感できる絵本として、きっとこどもたちにも記憶に残る一冊になると思います。

 

(書評文 | mewl 佐々木新)

 
 

『へいしのなみだ』
文 さとう ひでかず、さとう しなこ
絵 つかさ おさむ
出版社 こぐま社

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