あさになったのでまどをあけますよ

 子どもが生まれる前のことになりますが、一年間に一度、期間としては一ヶ月ほどひとり旅をするということをしていました。海外や国内の町で、旅行者ではなく、半分、住人として生活をする。というのも、その当時、生活の基盤だった東京では刺激を受けることが少なくなっており、何かしらの変化を欲していました。大体いく場所は同じ、付き合う友人や仕事仲間も同じだから生活がパターン化してしまい、喜びも悲しみもなく、倦怠感のようなものが常にまとわりついている感覚でした。
 旅行は手っ取り早く、そうした日常から非日常を味わえるものです。ただ、数日間の旅行ではその町の良さのほんの一部分しかふれることができません。だから長期間滞在できそうなホテルを選びました。自炊できるようなコンドミニアムタイプのホテルで、近くに地元のスーパーがあることが必須。さらに欲を言えば、人通りがある道に面しており、かつ、高階層の部屋で町を眺める窓がある、ということが重要でした。
 窓から眺めると、通勤時間にはビジネスマンが、昼間には若者や母親に連れられた子どもが、夜になるとそれまでどこにいたのかわからない風貌をした人々が姿を現します。窓があると、その町の風景そのものを眺め、観察することができるのです。これはとても刺激的なことで、窓際に椅子を持ってきて座り、アルコールを飲みながら数時間眺めるというようなこともしていました。
 また、窓辺にいる時にみる自然を含めた景観は、インスピレーションを受けるだけでなく、いわばヒーリングの時間でもありました。人種も言語も異なる国けれども、私たちは同じ太陽の光を浴びて、働き、生活をしているという事実に感動を覚えたのです。特に海外の場合、日常生活ではディスコミュニケーションが多発するので、孤独感を深めやすく、外出するだけで緊張感が常にあります。しかし、窓辺に立つと、すべてを許せるような気がして、緊張がすっと和らいでいくのです。
 そのような理由もあって、私は早朝に起きて、窓を開けるのが楽しみでした (ホテルの窓は少ししか開かないので、正確にはカーテンのみを開けるのですが)。孤独で緊張感のあるひとり旅だからこそ、朝の風景は新鮮で美しく、私は一日のはじまりに生きているという感覚を何度も味わいました。「今日はあのエリアを探索して、あれを食べて、夜はあれを作ろう」というシナリオを組み、今日という一日にどのようなことが起こるのか、という微かな興奮を胸に抱いて外出の準備をすることができるのです。
 大人になってから非日常感というものを特別につくらなければいけない状態になりましたが、現在、子どもが生まれて、生活を共にする中で、幼少期の頃は毎日が喜びに溢れていたことを思い出しました。朝起きるのが待ち遠しくて、何度早起きをしたことか。学校に行けば友人がいるし、帰ってくれば自由に行きたい場所に行くことができました。たまにテストで束縛されることはありましたが、その多くの時間が生き生きしたもので喜びに満ち溢れていた。
 荒井良二さんの『あさになったのでまどをあけますよ』は、そのような幼少期や旅行など非日常空間の中で感じる、町や自然の風景から受ける新鮮なインスピレーションをもう一度思い出させてくれる絵本です。あるいは、そうした非日常空間から戻ってきて、繰り返される日常の中にある風景をもう一度、見直す物語とも言えるかもしれません。
 久しぶりに本書のページを繰って、大人になってから見た海外の景色と幼少期の朝に見た景色が心象的に近しいことを知りました。色彩豊かで、活力溢れる、荒井良二さんの絵がそれらを結びつけたのです。
(書評文 | mewl 佐々木新)

 
 

あさになったのでまどをあけますよ
著者 | 荒井良二
出版社 | 偕成社

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