緑と青

 6月下旬の深夜、実家に一時的に戻っている妻から陣痛の報せが届いた。出産予定日の数週間くらい前からいつでも出発できるようになるべく小刻みに睡眠をとるようにしていた私は、すぐにメッセージに気づき出発する準備を始めた。その後、妻から病院に向かうという連絡が来たのは早朝6時すぎのことで、私は電車に乗って病院へ。人生二度目となる出産に (新型コロナウィルスの影響で実際は待合室にて) 立ち会い、第二子となる長男「青 (あお)」をこの手で触れることができた。とても待ち望んでいた瞬間だった。
 第一子である長女「緑 (みどり)」の出産はすべてが初めてのことであり、立ち会った時は靄の中を彷徨っているような何とも掴みきれない感情だったという印象がある。生命の誕生への驚きや喜びはもちろんあったが、それよりも不安や焦燥の方が大きかったように思う。しかし、長男「青」の時は、多くのことがクリアになっているせいか、まず誕生への喜びが素直に湧き起こってきた。彼に愛情を与える準備や親としての心構えが変わったのかもしれない。
 正直に告白すると、新生児であった「緑」を初めて見た時、父親になったこと、本当にこの子が自分の子どもなのかよくわからない、という現実感が伴わない感覚だった。あの時は家族が暮らす場所も決まっておらず、一時的にそれぞれ実家で暮らしていたし、会った時でも妻の感情を受け止められなかったり、夫婦として、家族としてどこかちぐはぐな印象だった。言ってみれば、私たちは恋人から夫婦として協力しながら人生を連帯していく移行段階にあり、家族としての意識も経験値もなかったのだ。だからいざ生まれ出た新生児を目の当たりにして、本当に一緒に暮らしていけるのか自信がなかったのだろう。
 そのような私も父親となり、妻と「緑」と一緒に暮らし始めた。その中で学んだことのひとつに、現代の家族とはある種 [閉じられた空間] の中での営みという紛れもない事実だった。閉じられた空間というのは、素でいられることから心も身体も療養できる良き場でもあるが、人間の根源的な弱さも出やすい場でもある。たとえば、美しい助け合いを根底とした繋がりと依存 (共依存) の境界が曖昧になったり、距離が適切に図られないことから感情をオブラートに包むことができず相手を傷つけてしまったり、第三者の目がないからこそ、一人の人間の中に眠っているあらゆる側面が湧き上がってくる。 つまり、良きものだけでなく、悪しきものも容易に引き出されてしまう可能性がある。
 私たち夫婦もそうした現代的な [閉じられた] 家族という空間の中で、感情が爆発して、お互いを傷つけあうことがたびたびあった。恋人関係の時はある程度距離を保っていたからこそ生まれなかったことが無意識のうちに引き出されていた。いま思い返すと、衝突し合うようなことでもないような気もするが、どうしても瞬間的に口や態度に出てしまう。稚拙なことだが、孤独になりたくて、妻に「数日間、実家に帰ってくれないか」と心ない言葉を発して、猛省したこともある。
 何気なく放った売り言葉に買い言葉が一歩間違えて大喧嘩に発展し、破局や事実上の仮面夫婦になる可能性だって全くないとは言い切れない。一つひとつは小さくとも積もり積もれば大きな火薬庫となるものだ。そのような私たち夫婦だが、共通する認識として、その度に「緑」の存在に助けられた感覚がある。
 長男「青」が誕生した時に喜びとともにまず思ったのはこうした過去の苦しみの背景であり、だからこそ、私たち家族の礎を築き強くしてきたのは、「緑」の存在だったのだ、という実感を得た。「青」の誕生が一つの節目、あるはトリガーとなり、私たちの家族史の1ページをようやく落ち着いて振り返ることができたような気がする。
 このページを読み返すと、「緑」が誕生して1年9ヶ月ほどのあいだ、家族を通じて、他者を知り、自分を知ろうともがいていたことを私は知った。こうしたそれぞれの行為の和が、家族の「形=礎」になっていくと思うし、実際、子どもが生まれる以前に比べたら確実に共通認識としての家族観 (家族の中での倫理観やルール、空気感)が生まれていると感じられる。たとえば、長男に付けた「青」という名が夫婦の中ですっと湧き出たことは共通の家族観がなければ出てこないものだろう (「青」は、色相環で「緑」に隣にあること、また2色は私たちの惑星を象徴するものであり、守られなければいけないものであり、混ぜると日本の伝統的な色「青緑」になることから、姉弟仲良く支え合って生きてほしいという願いが込められている)。
 長く暮らしていた東京を離れるとき、親しくしていた方から貰った「子どもはガイドになる」という言葉を心のどこかに秘めていたはずだったが、いつの間にか時間とともに忘れかけていた。しかし、第二子を迎えた一つの節目において、私は、子どもたちによって、家族というものがどのようなものであるのか、人に向き合うとはどのようなことなのかを、少しずつ学ばされていたということに気付き、ふいにその言葉が蘇ってきた。
 きっとこれからも家族の関係性=形は変わっていく思うが、やわらかな想像力を持って、子どもに向き合い、妻に向き合っていけたら良いと思う。できれば数年後、それぞれの色が混じり合って、見たことがないような綺麗なグラデーションを家族全員が纏っていることを願って。
(文 / 佐々木新)

Leave a Comment