花と暮らし

 私が幼少期の頃からずっと母親は花が好きで、実家の庭には何種類かの花や木が植えられています。だから、春から秋にかけて庭には何かしらの花が咲いており、その期間は途切れることなく花に囲まれた暮らしをしていました。
 そのような体験をしていたせいか、花には親しみがあって、私も実家から離れてひとり暮らしを始めてから花を家に持ち帰ったりしていました。けれども、借家のアパートメントには庭がないこともあって早々に枯らしてしまうことが多く、そのことが偲びなくなって、ある時から花がない生活をおくるようになりました。家にあるのは、仙人掌 (さぼてん) やドライフラワーのような放っておいても問題のない植物だけになっていったのです。
 こうして随分、季節を感じさせる花からは遠ざかっていたのですが、結婚して子どもが生まれ、故郷に戻って家族で暮らし始めるようになってからというもの家にはいつも花が咲くようになりました。これは、妻が花好きで、家の中にいつも花があるように心がけてくれているからです。とても何気ないことなので一緒に暮らし始めた時は忘れかけていたのですが、子育ての土台となる暮らしにおいて、花があること、もっと言えば、花が綺麗な状態でメンテナンスされていることは家族の心がどのような状態でいるかを表すバロメーターになるのだということに気づきました。花は家族の心を写す鏡のようなものに近いかもしれません。
 妻にどうして花が好きなのか尋ねてみたことがあります。もちろん、単純に美しいということもあるのかもしれませんが、小学校の頃、祖母から水仙の花を渡されて学校に持っていった経験が大きいようです。妻の手によって持ち込まれた水仙の花は、クラスの子どもたちに受け入れられて、大切に飾られたと言います。
 妻から聞いたこのエピソードの中で、特に印象深かったのは、花は確かに人間が見るものですが、花自体も人を見ている、という考え方でした。花を擬人化し、私たちの心のあり様を花がひっそりと窺っているというような心のあり方。花は人間から見れば受動的で言葉は話しませんが、確かに生きていて、独自の表現で私たちの心に訴えかけてきます。よく考えれば当たり前のことですが、大人となった今、あらためて「はっ」とさせられた話でした。
 生後9ヶ月の娘はまだ花がどのような存在なのか理解してはいないでしょうけれども、朝目覚めて、階段を降りながら花が咲いていたり、萎んだり、散っているのを見て興味深げに人指しゆびでさしています。明瞭な色の花が多いから目に付くのでしょうか。いずれにせよ、小さな頃から花に触れて、日本には四季と共に様々な花が咲き、枯れていくのを体感してもらえたら嬉しい。妻が散歩をしながら道端で嬉しそうに季節と共に生きる花を見て喜ぶ姿を眺めながら私はそう思うのです。
(文 佐々木新)

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