家族のかたち – 小宮山家 後編

 

 西東京の多摩市永山に住む小宮山夫妻 (小宮山豊さん、小宮山雅子さん) は、二人の息子さんを育て、いまでは緑溢れる静かな環境で穏やかな生活をおくっています。息子さん二人は、すでに成人し、それぞれデザインやクリエティブ業界で活躍する人物。
 そのご両親に今回インタビューする契機になったのは、友人であり、お仕事もご一緒しているご長男の繋がりからでした。その穏やかな人柄と鋭い観察眼、豊かな人間性、もちろんアウトプットする作品の強度に惹かれて、どのようなご両親に育てられたか興味を持ったのです。
 もちろん現役子育て中の夫婦にインタビューをすることも学びがあるのですが、子育てを終えて、さまざまな経験や子どもとの関係性の変化を経てきたおふたりだけに、俯瞰的な視点、主観と客観が綺麗に混じり合う、貴重なインタビューとなりました。

 

 

反抗期や単身赴任で得た学び
不在から生まれた子どもへの意識
─ 子育てで苦しかった時期はありますか?
雅子さん :
大変だったのは反抗期でしたね。中学生の時、兄弟揃って口を利かなくなりました。例えば、私が30分とか1時間かけて料理を作っても何も言わずに黙って食事をして、すぐに個室に戻ろうとする。引き止めて、「今日は学校どうだったの?」と聞いても「別に」という寂しい回答しかない。
子どもにとって敏感な時期があることは知っていましたが、いざ自分が目の当たりにすると、すごく悲しい想いになりました。でも、私も同じくらいの年齢の時、父親に対して似たような態度をとってしまいましたし、すべての子どもが通る道ですから、この時期が過ぎたらまた自然に話してくれると信じていました。
豊さん :
その頃、私はちょうど単身赴任をしていて、久しぶりに家に帰ってきた時、息子たちから色々な話を聴くようにしていました。同じ男同士ということもあり、昔の自分と重ね合わせて、息子たちの心情は理解はできたのですが、毎日接していた妻は辛い部分が多かったのだろうと思います。

 

 

─ 夫婦の役割分担はありましたか?
豊さん :
長男が7歳、次男が4歳の時から9年間も単身赴任となったので、ちょうど子どもの大変な時期を妻に背負わせてしまったと思っています。ですから、子育てという意味では単身赴任の時はかなり偏ってしまいました。しかし、それ以外はあまり明確なルールもなく、なるべく平等に空いている人が家事や子どもと遊ぶように心がけていたと思います。
雅子さん :
夫が単身赴任の時に、当時発売されたばかりのFAXを購入しました。子どもたちが何かを伝えたい時、お手紙を書いてFAXで送り、すぐに返事が届くようにする為です。でも、子どもはすぐに手紙をしたためることはできませんから、結局、茨城にいる夫は毎週帰ってくることになりました。息子たちがあまりに寂しがっていたのでしょうね。
それから毎週金曜日の夜に茨城から帰ってきて、週末をともに過ごし、月曜日のまだ暗い早朝に家を出て単身赴任先に戻るという生活になりました。そのような生活になってから、土日はずっと子どもたちと遊んでくれるようになりました。

 

 

─ どのような遊びをしていましたか?
豊さん :
ボール遊びや公園での散歩、夏はプールに行ったりもしました。不思議なことですが、単身赴任をしていた時の方がかえってまとまった時間がとれたような気がします。週末は一日中一緒にいましたから。それ以前は土日出勤も多かったのです。離れていることは何も悪いことだけではないかもしれませんね。私自身、子どもの不在を感じる時間があったので、そういう意味では単身赴任の時の方が子どもに接することを強く意識したのでしょう。
雅子さん :
いま夫と長男はユニットを組んで一緒に仕事をしているのですが、こうした小さな頃からのコミュニケーションの積み重ねが土台になっているだろうなと私は思っています。

 

 

 年齢を重ねて、変化する親子の関係性
父と息子によるユニットの誕生
─ ご長男とはどのような過程で一緒に仕事をすることになったのでしょうか?
豊さん :
私はずっと企業で研究の仕事をしていたのですが、60歳で退職する以前から、次に何をしようかと考えていました。前々から何か自分でやりたいなと思っていたのです。そのような中、子どもたち二人はデザインや美術関係の仕事をしているので、彼らをサポートできるようなアイデアが浮かびました。息子たちが独立した時に簿記などの資格があれば、スタジオの経営などサポートができるかもしれない、と。
それと同時に開発メーカーでの経験として、最終的なアウトプットまでの過程を知っているので、その知識が彼らの将来にとってプラスになるだろうと考えました。ものづくりの後半部分での知識によってできることがあるかもしれない、と子どもたちに話していたのです。
雅子さん :
夫は退職する以前から何かサポートしたいから簿記を学ぶ、と子どもたちに伝えていましたね。もし独立する時が来たら手伝ってあげるよ、とまるで冗談のように言っていました。実際、簿記をとったのは58、59歳くらいの時でしたかね。ユニットを作る上で必要なスキルになると言って、張り切って勉強をしていたように思います。

 

豊さんは蜘蛛の巣を写真で撮影し続けている

 

─ 夫婦喧嘩をする場合はどうしていましたか?
豊さん :
子育てにおいて夫婦関係が良好であることはとても大切なことだと思います。ですから、子どもの前で決して、パートナーの悪口は言わない、と心に決めていました。喧嘩自体もあまり多い方ではありませんでしたが、特に子どもの前では意識してしないようにしていましたね。もしも、どうしても言いたいことがあった場合は、子どもがいない時に話し合っていました。子どもにとって夫婦の不仲がもっとも悲しいことですから。
雅子さん :
子どもたちは親が喧嘩すると、どうなっちゃうの、ととても心配するものです。喧嘩ではなくて、ちょっときつい言葉を言っただけでも、子どもたちは泣いて嫌がりました。それを見たら喧嘩なんかできません。

 


 

─ 「親の背を見て子は育つ」と言いますが、お二人の小さな頃はどのように育てられたのでしょうか?
豊さん :
私は四人兄妹の末っ子でした。最後の子どもなのでかなり可愛がられて育てられましたね。大事に育てられるという意味では長男だったのでしょうが、とにかく可愛がってもらった。長男は厳しく育てられたらしいのですが、私の時は優しかったのです。父親から怒られた記憶もあまりありません。父も四人目ということで子育てのコツを理解して、接し方がうまくなっていたこともありますし、時代も大きかったでしょうね。長男は戦中、末っ子の私は戦後生まれです。日本全体の空気感が大きく変化した時ですね。戦中は当然のことながら、子どもを食べさせることが今以上に大変だったのだと思います。余裕がなかったのでしょう。
雅子さん :
私も夫とほとんど一緒ですね。上の二人は厳しく育てられたようですが、私は末っ子だったためか可愛がって育てられました。普通にしていれば、怒られることもなかったし、だいぶ自由にやらせてもらいました。

 


 

─ 子どもたちは小さな頃から本が好きでしたか?
雅子さん :
漫画をよく読んで育ちましたね。漫画の歴史本も好きだったようです。今でも漫画はよく読んでいるのではないかしら。
もっと小さな頃は絵本もよく読んでいました。例えば、『消防自動車ジプタ』『はらぺこ青虫』など。ひとつ好きになるともう何回も何回も読んで、と同じものをせがまれましたね。

 

 

自身の持てる一生懸命を見せてあげること
活き活きと楽しんでいることを子どもたちに伝えること
─ 最後にこれから子育てをする、もしくは現在進行形で子育てをしている世代に対してメッセージをいただけますか?
豊さん :
父親は、子どもが小さな頃その楽しみ方がわからないかもしれません。ただ、将来大きくなった時を想像して成長を楽しむということはあるのだろうなと思います。その為にも、仕事でも何でも良いのですが、ひとつのことを集中してやっている姿を子どもに見せることが大切だと思います。その時、その時の、自身の持てる一生懸命を見せてあげられれば、子どもは絶対にそれを受け取ってくれる。その積み重ねで、将来何倍にも楽しみが増えていくと思います。
雅子さん :
私としてはお父さんにも、もっともっと小さな頃から子どもに触れて欲しいと思っています。遊ぶということに限らず、とにかく接するということ。一緒にいればいるほど絶対に可愛くなっていきますから。できるだけ現場にいて、子育ての楽しみを味わって、いっぱい一緒に遊んで欲しい。そして、言葉に出して愛情を伝えて欲しい。
それから、子供は自分で生きる力を自然に持っているから、何があっても我慢して信じてあげてください、と伝えたいです。親は、子供にこんなふうになって欲しい、と思うかもしれませんが、結局は自分の生きる姿でしか伝えられないものです。自分が活き活きと楽しんでいる、ということが子どもにとって最も良いことではないかな、と私はそう信じています。

 

 

あとがき

 「子は親を映す鏡」という言葉がありますが、インタビューを終えて、小宮山家の長男とご両親を知った私は、本当にその通りだなと感じました。私の稚拙なインタビューにもゆっくり耳を傾けてくださり、否定することもなく、穏やかな空間の中で自由にお話をすることができました。自分の力がのびのびと出せたような感覚です。これは長男と普段、友人として話をしている時に近いものす。
 そして、永山のニュータウンが持つ、独特な開放感も子どもが育つ土壌として素晴らしいものだ、ということも特筆すべきことだと思います。子どもが喜びそうな迷路のような道があり、ユニークな家屋があり、豊かな文化がありました。
 実はインタビュー後、長男が駆けつけてくれて、ご両親が用意してくださった料理をご一緒しました。雅子さんは生活に根ざした家庭料理を長年学校で教えてきたそうですが、最近ではさまざまな世代が集まる場所で料理を作っているのを知りました。とても美味しかったことはもちろんですが、その好奇心が素晴らしいものでした。これは豊さんにも通じるところがあって、事実、退職後も写真など美しい作品を撮り続けています。家族それぞれが独自に好奇心を持ち、何かを作っているということが小宮山家の血筋なのかもしれません。

 

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コンテンツクレジット
聞き手 : 佐々木新
写真 : 井手勇貴 www.yukiide.com

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