おおきな木

 私は小さな頃、ある病気を患って、一ヶ月ほど入院したことがあります。相部屋で隣になったのは、知的障害をもった同じ年齢くらいの男の子。私もまだ小さな頃でしたのでなぜ彼がそこにいたのか詳しいことはわかりませんが、長く病院に入院していて、その間、様々なことを教えてくれました。婦長は怖い人だとか、それぞれの先生の性格など、口下手でしたが面白い話だった記憶があります。
 入院したばかりの私は彼とすぐに友人になりました。彼を観察していると、どうやら退屈しないようにと彼の家族は、毎週末やってきて大量の玩具や漫画をあげていました。
 私はそれが羨ましくて仕方なかったのでしょう。彼と話してその玩具や漫画を借りるだけでは飽き足らず、もうすっかり飽きてしまった私の私物と交換をねだるようになりました。いかに自分の私物が素晴らしいかを説く話を彼は「うんうん」と頷いて、私の要望通り、家族から貰ったばかりのピカピカの新品の玩具と交換してくれるのでした。
 いま考えれば客観的にみて、その交換は平等だとは言えないものだと思いますが、私はそのことに罪悪感を感じていませんでした。いらなくなった私物を、私はいかにも価値あるものに仕立てあげているにも関わらず、彼が欲しいと感じたのならそれで良いのだと思っていたのだと思います。あるいは、そのようなことすら思っていなかったのでしょうか。私は、彼との間に友情すらあると考えていました。
 そうした行為を親が見過ごすはずがありません。せっかくあげた玩具が何故か隣にいる私に渡っているのですから。当然のことですが、婦長さんに報告され、私たちは別々の部屋に引き離されて、そのまま私は退院をしてしまいました。

 

 シエル・シルヴァスタインの絵本『おおきな木』を読んだのは、それからどのくらい経過した頃だったでしょうか。正直分かりませんが、胸に突き刺さるような痛みを覚えたことは鮮明に憶えています。
 その世界では、おおらかで優しい木と無邪気な小さな子どもが時間を共にしていく姿が描かれていました。子どもが小さなうちはおおきな木にとっても可愛らしい要求でしたが、子どもの成長と共に求めるものがより大きく、少しずつ傷とも言えるような代償に変わっていく。林檎を根こそぎ取られ、枝を取られ、木の幹を切り倒され、最後には切り株だけになってしまう。それでも木は健気に男の子が喜ぶ姿だけを楽しみに生きていく。
 それからしばらくこの絵本を手にすることはなかったのですが、娘の出産祝いで友人から本書をもらい再び読む機会が巡ってきました。読後、感じたのは、大きな木が不憫で可哀想になるという気持ちはあの頃と変わりないですが、人間が成長するにつれて肥大していく欲望の塊に対する悲しさでした。小さな頃は単純におおきな木が可愛そうとしか感じていませんでしたが、男の子の方が不憫な生き方をしているように感じたのです。それは同時に、おおきな木が感じた喜びを、私が幼かったあの当時よりも身近に感じられるようになったことでもあります。「与えること」の喜びが、少なともあの当時よりは理解できるような気がしたのです。
 私たちは社会の中で、「与える」「与えられる」のバランスを図りながら生きています。ビジネスはまさにそうしたルールの上で成り立っていますし、夫婦でも大小はありますが、基本的にはそうしたベースがあります。『おおきな木』で広がる世界では、そのような関係性ではなく、親と子、神と人間のような、見返りを求めない愛情が淡々と描かれています。
 思えば幼い頃、病院で出会った男の子に欲は全くありませんでした。私が望むものを彼は (限られたできるうちの範囲で) 与えてくれたのです。そのことを『おおきな木』を読んで、ふいに思い出したのでした。
(文 / mewl編集長 佐々木新)

 
 

『おおきな木』
作・絵 | シェル・シルヴァスタイン
訳 | ほんだ きんいちろう
出版社 | 篠崎書林

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