岸辺のふたり – Father And Daughter

 セリフや物語の背景をあまり語らないという作品があります。絵本であれば絵や構図によって、映画などの動画では絵やモーション、音によって物語の展開やメッセージを読者/鑑賞者の方が積極的に読み解いていく、いわば能動的な関わりを持って楽しむ、芸術性が高い作品です。一見すると難解でとっつきにくいかもしれませんが、私は小さな頃からこのような説明を抑制した作品というものが好きです。
 オランダ出身のマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督が製作した短編映画『岸辺のふたり – Father and Daughter』(Youtubeで公開されています。未鑑賞の方はぜひ)は、まさに言葉による物語進行や背景の説明を排して、絵やアニメーション、音によって表現した美しい作品です。テーマとして、離れたもの、あるいは死別したものに対する想い、親子の対話、時間の流れ、などさまざま角度から挙げられそうな懐の深い作品と言えそうです。

 

岸辺のふたり – Father And Daughter

 

 物語は父と小さな娘が岸辺を訪れるところから始まります。父が娘に何やら言葉をかけて、娘を残したまま一人ボートに乗り、どこかへ旅立ってしまう。すぐに戻ってくるのかなと思い見ていると、小さな娘はひとり自転車に乗ってどこかに帰っていく。それから娘は自転車に乗って何度も何度も岸辺にやってきては対岸らしき方向を眺めます。ここで父親がどうやら戻ってきていないことを鑑賞者は知ることになるのです。そして、歳月がどんどん流れて、娘は成長し、やがて、老いていく。それでも、自転車に乗って、岸辺に立ち止まり、対岸を眺めるのです。
 本作品では、約8分間という短いアニメーションの中で、繰り返し現れるものがあります。「自転車」「岸辺」「水」「鳥」。これらに鑑賞者は様々な投影をしていくことになるでしょう。例えば、私は「鳥」に対岸まで渡れる自由の象徴を、「自転車」には自力で動くことができる自助の力を、「水(川)」は異世界への遮断をみてとりました。こうした見立てによって作品の幅や深度が出て俄然、創り手とやりとりが面白くなっていく感覚があります。きっとこのような意図や感情があったのではないかなと想いを巡らす。つくり手と対話をする面白さがここにはあります。
 最後、娘が干上がってしまった川 (あるいはそもそも干潟のようなものだったのかもしれません) を渡ろうと歩き、途中でボートを発見します。私はそのシーンを見て、この岸辺の光景はすべて娘の心象風景をあらわしていたものだったのかもしれない、と思いました。最初に父と別れた時点ですでに彼は死去しており、それでも最後に交わした言葉を信じて、心の中で風景を生み出し、いつか会える日を流れる歳月の中で静かに待っていたのではないかと。だからこそ川の中で見つけたボートの先には、あの時のままの変わらぬ父が待っていたのではないか、とそう思うのです。
 もちろんこれは私の見立てによる本作の見方ではあるので、鑑賞される方の経験や視点によって異なった見方があらわれると思います。もしかしたら何人かの鑑賞者が集まってお話をしたらより作品への造詣が深まるかもしれません。いずれにせよ、解釈が開かれた作品というものは、鑑賞し終わってからの広がりが大きくなる可能性が高く、より多角的な視点を共有することができるものだと思います。同名の絵本『岸辺のふたり』や、この監督の他作品も素晴らしいので、ACMEfilmworks からぜひチェックしてみてください。
(文 佐々木 新)

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