『NIPPER-His Master’s Voice-(ニッパー ヒズマスターズヴォイス)』は、グラフィックデザイナーとして活躍する石浦克さん著の絵本です。
本書の主人公は、犬の「ニッパー」です。レコード会社ビクターのロゴマークの蓄音器の前で耳を傾けている犬、といえば多くの方が思い浮かべることができるのではないでしょうか。私はその絵を思い出すことは簡単にできましたが、この絵本を読むまで、なぜその犬が蓄音器の前で耳を傾けているのか全然知りませんでしたし、その背景に心が温まる物語が吹きこまれているとは思ってもみませんでした。
犬は多くの物語となって小さな子どもたちに受け入れられていますが、私も小さな頃から犬の物語が好きで、両親に『どろんこハリー』を何度も読んでもらった記憶があります。それから、我が家には小さな頃から犬がいたことも大きいのでしょう。自意識が芽生える前には、すっかり私も大の犬好きになっていました。実家を出てひとり暮らしをした時には、どうしても我慢できなくなり、あたらしくミニチュアダックス一匹を飼ってしまうくらいです。そんな私は、結果的に今までずいぶん長い間 (おそらく24年間くらい)、犬と一緒に時間を過ごしてきました。
犬の傍にいて学んだことはたくさんあります。その中で培ってきたと思うことは、言葉として物言わぬ存在とどのように対話をして心を通わせるかということです。犬は人間の言葉を話しませんが、確かに心を持っています。だから、私たちは彼らとコミュニケーションを図る時、その表情や小さな行動を観察して、心を想像する。そのような訓練が小さな頃から犬を通じてなされてきたような気がします。これは喃語をはなす乳児など言葉がまた未発達の子に接する時に感じる感覚と近いものがありそうです。身振り、泣き声、言葉になっていない喃語などから私たち大人が察していく。
本書の主人公であるニッパーも人としての言葉を持ちません。彼の心を知るには、表情や行動を見るしかないのです。例えば、身体のポーズや、傾け方、耳の持ち上げ方、表情。石浦さんは犬を丁寧に観察して、イラストに描き出しています。だからこそ、犬の一瞬のポーズの切り取り方や、表情から何を考えているのかを読み取ることができる。言葉を使って安易に多くのことを語らないからこそ、そこに考える大きな余白が生まれているように感じます。
また、そのような繊細な犬の仕草や表情の描き方の巧みさと同時に、私が感銘を受けたのは、史実を下敷きにストーリーが編まれていることでした。本当にあった家族の普遍的な愛情のかたちが時代を超えて蘇る、それこそが本書の最も美しいところだと私は思います。ニッパーが蓄音器から流れる亡くなった主人の声を聴いていたということ。その姿をその亡くなった主人の弟が描き、その絵を目にした蓄音器の発明者であるベルリナーが、この名画を商標として1900年に登録したということ。こうした背景を知ると、いろんな偶然を経て、約100年後に生きる私たちのもとへ届いたことがわかり、何とも言えない温かい心もちになります。
全世界を巻き込む新型コロナウイルスの蔓延で、多くの方が自宅待機をしなければいけないこの時期、仕事や家族のことをあらためて考える時間が増えました。何を大切にしてこれからどのように生きていくか。本書を通じて私が感じたのは、その問いの答えを探すヒントのような、普遍的な家族の繋がりや動物と人との愛情のあり方でした。どうか家族が離ればなれにならないように、この物語を通じて大切なものを発見してもらえたら嬉しく思います。
(文 佐々木新)