ZOOM

 「私」を「もうひとりの私」が見ていると初めて意識したのは、おそらく6、7歳頃だったと思います。当時、私は日曜日になると、クリスチャンである両親とともに教会に通っていました。何がきっかけだったのかは覚えていないのですが、ある日曜日、周りの大人や子どもたちが目を閉じて祈りを捧げている時、私は瞼を開き、彼らをつぶさに観察していました。それは神様という存在を少しも疑ったことがなかった私が、初めてその存在を疑った瞬間でもあったかと思います。そうした意識とともに「もうひとりの私」が教会の天井あたりから「私自身」を見下ろしていることに気づきました。「もうひとりの私」は、あなたの行為はとても恥ずかしいものだ、と糾弾するような眼差しを向けていたことを覚えています。
 その頃から、熱心なクリスチャンである両親を裏切りたくないという「私」と、教会や神様の存在を否定する「もうひとりの私」をどのように統合していくかが一つの課題になりました。友人にも、先生にも、もちろん両親にも言えず(その代わり態度や行動に出て困惑させた)、ずいぶんと悶々とした記憶があります。分裂していく私とどのように折り合いをつけていくのか。知識や経験不足だけでなく、相談する人もいなかった私は、社会や世界を俯瞰して見ることができる年齢になるまで苦しんだ記憶があります。
 1069年、アポロ11号によって人類は初めて月に降り立ちました。それはちょうど宇宙開発競争が繰り広げられ、新たな視点を人類が脳にインストールした時期でもあります。私たち人類は地球という惑星を俯瞰して(言い換えると客観的な眼で)見るという視点を当たり前のものとして手にすることになりました。
 そのような視点によって大きく変化したことは、幼少期の私が経験したような「もうひとりの私」との統合のようなことであったのではないかと思います。地球という惑星を外部から見たことによって、私たち人類が行ってきた行為がいかに野蛮で恥ずかしいことだったのか、突きつけられたのではないかと。その反省を踏まえて、現代人は、戦争はもちろんのこと、地球の資源や環境破壊など惑星の共有財産=コモンという視点に立つ、という意識が前時代よりも確実に多くの人々の中で共有されるようになってきたような気がします。
 ハンガリー出身のイラストレーターであるイシュトバン・バンニャイの『ZOOM』は私たちの暮らしを、連続するズームアウト・ズームインで描いた絵本で、まさに「もうひとりの私」の視点を絵本の世界に与えた作品だと思います。鶏のトサカから始まった視点は少しづつズームアウトしていき、空に、そして最後には宇宙から見た地球へと俯瞰した視点に繋がっていきます。
 レイとチャールズのイームズ夫妻が制作したフィルム「パワーズ・オブ・テン」(1997年発表)を彷彿とさせるこの神の視点は、当初大きな驚きを持って迎えられ、そして、現代に生きる私たちにもインスピレーションを与えてくれるものです。
 私の二歳となる娘も、ズームアウト・ズームインの手法を使った絵本に影響を受けたであろう、Junaidaさんの『』という絵本はお気に入りの一冊。次々と視点がスイッチしていくなかでさまざまな発見をして、楽しんでいます。きっと日常生活で見ることができない視点を新鮮に感じているのだと思います。
 大人になった私は、その傍らにいて、幼少期から青年期に現れた「もうひとりの私」とどう折り合いをつけたのかを回想しながら、こうしたズームアウト・ズームインの絵本を読んでいます。あの当時、私は『ゲド戦記』にあらわれる「影」などに「もうひとりの私」を重ねあわせて、その折り合いの付け方を疑似体験していたように思いますが、もしもあの頃『ZOOM』という絵本に出会っていたら何かが変わっていたのかもしれません。幼少期の私に今の私が会ったら何と声をかけるのか想像しながら、子どもたちと『ZOOM』のような「もうひとりの私」の視点を持つ絵本世界を楽しもうと思っています。
(書評文 | mewl 佐々木新)

 
 

ZOOM
作・絵 | イシュトバン・バンニャイ
出版社 | 復刊ドットコム

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