うそ

 小学生の頃、馬鹿げたうそを付いた。そのうその契機は、カッターで自分のランドセルに3、4センチメートルくらいの小さな切り込みを入れて学校に行ったことから始まった。何か面白くないことがあったのか、単純にカッターの切れ味を試してみたかったのか、いずれせよ衝動的なことで当時も今も明確な理由はわからない。
 ランドセルに付いた切り込みに気づいたのは友人だった。切り込みは明らかに何か鋭利なもので裂かなければ付かないような傷だった。その友人が「佐々木君のランドセルに切り込みが入っている」と騒ぎ出した。確か体育か家庭科の授業でクラスから離れて戻ってきた直後のことだ。クラス全員に一気に知れ渡るまで、ものの数秒だった。
 「誰がやったんだ?」と誰かが言った。当然だろう。誰が、自分で自分のランドセルに切り込みを入れると思うだろうか。私はとても恥ずかしくなって、自分が実行犯だと名乗り出ることはできなかった。そこに先生がやってきて、事態はさらに悪化した。私が虐められていると思ったのだろう。とても教育に熱心な優しい先生だったから、放課後、全員で残っていじめを突き止めようとしてくれた。
 私はうそを付いた。ここまで事態が膨らんで、自分がやったとは言えず、虐めを否定した上で(肯定すると特定の冤罪を生んでしまう)誰がやったか検討もつかないと言った。学校から両親に連絡が入って、そこでも私はうそを付かなければいけなかった。その頃には、小さなうそがどんどん重なって、個人では制御できないくらいに大きくなって、騙された人は飛躍的に多くなってしまっていた。皆が忘れるまで、このうそは自分の中に留めようと思った。私は時間が過ぎるを待った。そして、現在まで誰にも話していない。
 このエピソードは、谷川俊太郎の詩をベースに、中山信一がイラストを手がけた絵本「うそ」を読んだ時に最初に思い出したうそである。その記憶は苦々しいものであり、頭の中が混濁し、灰色になってしまうような経験だ。
 「うそ」に登場する男の子の姿が妙にあの頃の自分に重なったせいかもしれない。うそはいけないと思っていても、咄嗟に付いてしまううそ。それでもうそを通じて起こる体験を逡巡しながら、自分のことを深く知っていく。その過程が日常の些細な風景の中で描かれていて、確かにそのような瞬間があったなと強い共感を覚えた。例えば、地面で動き回るアリや水たまりにうつる自分の姿を眺めながら、何故あのような嘘を付いたのか自分を分析しようと試みる。もちろん簡単には答えは出ない。
 本書の本質はそれだけでない。自分が付いた嘘に羞恥しながらも、人間が生きる上で付いてしまううそとどのように共存していくべきなのかを問いかけてくる作品だと感じた。決して頭ごなしに「うそは悪いものである」というのではなく、うそを付く自分とどのように上手く付き合っていくのか、うそから一体何を学ぶべきなのか、ポジティブな思考へといつの間にか自分が導かれていく。
 そのせいだろうか、ランドセルに切り込みを入れた小学生の私を分析して、当時、私は誰かに注目されたかったのではないかなと最近では考えるようになった。言葉で自分の心情を表現することが難しかった幼い頃の私は、誰かにかまって欲しかったのだろう。思い返してみると、その時期は母が育児から解放されて仕事を始めた頃と重なる。保育園や小学校低学年までは家に帰ると必ずいた母親が働きに出ていて、家は空っぽだった。私は愛情を欲していたのかもしれない。
 実際、その事件によって注目を集めた私はどこかで強い愛情を感じていた記憶がある。友人や先生や両親が私を心配し、優しい言葉をかけ、できる限り行動してくれたのだ。それが妙には嬉しかったのだ。私はうそを付いた罪悪感と、愛されている感覚が混じり合う中、自分の実像の輪郭を捉えようとしていたのかもしれない。

 

うそとほんと

うそはほんとによく似てる
ほんとはうそによく似てる
うそとほんとは
双生児

うそはほんととよくまざる
ほんとはうそとよくまざる
うそとほんとは
化合物

うそのの中にうそを探すな
ほんとの中にうそを探せ
ほんとの中にほんとを探すな
うその中にほんとを探せ

谷川俊太郎

 

(書評文 / mewl 佐々木新)

 
 

うそ

作 | 谷川 俊太郎
絵 | 中山 信一
出版社 | 主婦の友社

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