きもち

 幼少期を振り返ってみると、「嬉しさ」という感情よりも「悲しさ」「苦しさ」、あるいは自分を責めるような感情を伴うものの方が多いように思う。脳は痛みを伴う記憶の方が強烈に刻まれる (リスク回避をするなど生存する上で必要という理論)、という科学的実証データもあるので仕方がないことかもしれないが、時々、本当に胸が苦しくなる時さえあって、生きて行くのはなかなか大変だなと思う。
 そのような痛みが伴う記憶の中で、個人的には誰かに危害を加えられた、という被害者としてのきもちではなく、自分が加害者になってしまった時の記憶の方が大人になってからより重みを増してくる感覚がある。
 幼少期にやってしまった加害者としての行為としてすぐに浮かんでくるのが、友人から借りたゲームを壊してしまい、それを返す時に嘘をついたことだ。ゲームを持ち運んでいる時にどこかにぶつかって破壊してしまった、いわば、不可抗力かのように装って嘘をついた。当然、友人は私を疑ったが多くを追求することなく許してくれた。
 激しく咎められる危機を脱したものの、それから時間が経過するごとに私は苦しくなっていった。友人といつものように遊ぶのだが、何か責められているような感覚になっていったのだ。その後、彼はそのことで一度も私を責めたことはなかったが、私の方が良心の呵責に苛まれて、次第に彼と一緒にいることが苦痛になっていき、クラス替えが起こったこともあって謝罪する機会を逸して、結局は疎遠になってしまった。
 あの頃は自分のきもちに向き合うことだけで精一杯で、彼がどのようなきもちだったのかゆっくり考えることはできなかったが、壊れてしまったものは仕方がない、それを責めても仕方がないから、これまで通り友人として接した方がお互いのためになる、そんなふうに彼は考えたのではないだろうか、と今では思う。どこか大人びた彼だからこそそんなふうに思っていても不思議ではない、と最近では考えるようになった。そして、自分がいかに甘えた子どもだったのかを、あらためて認識するようになった。
 絵本『きもち』を読むと、いつもその彼のことを真っ先に思い出す。私は絵本に登場する、友人のおもちゃを奪い取る意地悪な男の子で、きっと長新太さんが描くイラストのようなとても嫌な顔をしながら彼に接していたのだろう。もちろん、私自身も他の友人に似たようなことをされたこともあるが、どうしても自分が行ってしまった行為の方が先に立ってしまう。
 それくらい本書『きもち』に描かれる意地悪な男の子の印象は強く、私を一瞬で幼少期の苦い記憶に放り込んでしまう。それでも何度も、この『きもち』を開いてしまうのは、人生においてとても大切なものが描かれているからだろうと思う。大人になった今でさえ、形こそ違えど自らの行為によって他者が苦しんでいるかもしれない、と想像を働かせてしまう。そんなふうにして『きもち』のページを繰っている自分がいる。
 私の娘はもうすぐ2歳だが、弟や友達を引っ掻いたり、つねったりして、傷つけることがよくある。玩具もあたかも自分のものであるかのように横取りしてしまう。そのような年頃の娘を観察しながら、他者のきもちを知るということはなかなか教えられるものではなく、自分自身で体感し、友人たちとコミュニケートしながら学ぶことなのだなとつくづく感じる。
 そのような行為を恥じるのはやはり、客観的に、俯瞰的に自分をみるということが最初のステップになるのだろうだけれども、そのような意味では絵本というのはその視点を与えてくれる機会になるのではないだろうか。他者のきもちを教えてあげることはできないが、親としては絵本による擬似体験や追体験を通じて客観的な視点に立つ機会は設けてあげることはできるかもしれない。
(書評文 | mewl 佐々木新)

 
 

『きもち』
著者‏‎ | 谷川俊太郎
イラスト‏‎ | 長新太
出版社‏‎ | 福音館書店

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