怪物園

 母方の祖父と祖母がまだ健在だった頃、私はよく二人が暮らす家に遊びに行った。そこは長屋のような場所で私たちもその一角で暮らしており、近所には親戚関係者が多く居た。祖父母が暮らしていたのはいわゆる母屋と呼ばれるひときわ大きな家で、私は離れにある薄暗い納戸によく探索に行った。納戸と言っても、そこはかなり大きなスペースで、倉庫に近い。祖父はスポーツ店のビジネスを営んでいて、家で使用するもの以外にもビジネス用品を納めておく必要があったらしく、たくさんのもので溢れていた。もうその建物は壊されてしまったのでうる覚えだが、納戸に行くには勾配がついた薄暗い廊下を渡っていく必要があり、どこか少し薄気味悪さを感じる場所だった。それと同時に、なかなか人が寄り付かなかったので、秘密基地にでも隠れるような何とも子ども心をくすぐる場所でもあった。
 ある時、私はその納戸に忍び込み、段ボールの中でつい寝入ってしまい、気がついたらもう夕食も終わる時間だったことがあった。後から聴いたところによると、神隠しにでもあったのかと思い、ちょっとした騒ぎになったらしい (知らぬ間に外に出たと思い、両親や祖父母が周辺を探しに行ったとか)。私はそのようなことも知らずに暗くなった納戸で目を覚まし、「ここではないどこか」から戻ってきた感慨に耽った。
 大人の目の届かない場所に隠れる心地よさを覚えたのは、きっとそうした体験が初めてだったのではないだろうかと思う。普段ではふれ得ない少し恐怖感がある (言い換えると冒険心を満たしてくれる) 世界に浸って、ふたたび安堵する場所に戻ってくる。その夜は普段よりも家の空気が温かく感じられて、妙に両親に甘えたくなった記憶がある。
 大人になってからだが、子どもにとって、こうした「ここではないどこか」という存在がとても大事であることを知った。理由はいくつかあるが、一つ挙げるとすれば見えないものの存在を信じることができる力が付くということ。つまり、そうしたもの (たとえば神さまや妖怪) に対する感謝や畏敬を持つということでもある。本来、日本は古来からこうした目に見えない、異界のものを尊重し共存することで文化を築いてきた歴史がある。あるいは、「ここではないどこか」があることによって、現実から一時的に逃避する=セーフティスポットのような役割も担っているかもしれない。
 祖父母が亡くなり、家が取り壊されたことによって、「ここではないどこか」にアクセスしにくくなった私は、あの時の体験をもう一度経験したくなって、「ここではないどこか」の存在が描かれた絵本や児童書を読み漁った。『エルマーのぼうけん』『グリム童話』『ナルニア国物語』『指輪物語』などずいぶん両親に読み聞かせをねだった記憶がある。いまにして思えば、生と死、光と闇といった相反するもののテーマが好きだったようだ。
 自分の子どもたちには、もう少し大きくなったら前述した作品も読んであげたい(読んでほしい)が、そうした冒険心をくすぐる作品として、いまは junaida さんの『怪物園』を手渡したいと思っている。我が家でもすでに『の』や『みち』が、冒険心をくすぐるというカテゴリの絵本コレクションとして参加しているが、本作『怪物園』も「ここではないどこか」に冒険するような体験が得られる作品だと思う。
 なかでも本作『怪物園』は怪物をテーマにしているので、他作品よりも異界の擬似体験という感覚が強い。また、『怪物園』だけに限らないが、junaida さんの世界観の特長として、描き込みの緻密さというのが挙げられる。ページを開くと、細部まで描き込みがされており、毎回発見がある。壁に描がれた絵や本棚に収まっている本、メモや散らかったおもちゃ、怪物の造形に至るまで、おとなでも都度発見する楽しみがあると思う。子どもから新しい発見を促されることもあるのだろう。
 大人になり、子育てをするとどうしても現実の問題ばかりにぶつかってしまう。「ここではないどこか」という存在もどこか遠いものとなり、アクセスすることも、あるいはしたいという欲求もなくなってしまう(こちらが忘却すると、「ここではないどこか」は急にその扉を閉じてしまう)。でも、最近では、子どもたちと一緒に一時でも良いから「ここではないどこか」を冒険してみたいと思うようになった。どうしてそう思うようになったのかわからない。もしかしたら、我が子にふれて彼らの目線に立つことで、かつて子どもだった自分に帰り、「ここではないどこか」を信じている大人の方が格好いいなと思った記憶を思い出したからかもしれない。今からでも決して遅くはないだろう。子どもたちと一緒に私の中にある「ここではないどこか」を探しにいってみようと思う。
(書評文 | mewl 佐々木新)

 
 

『怪物園』

作 | junaida
出版 | 福音館

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