しんでくれた

 幼い頃、一番最初に「死」というものを身近に感じたのは、祖母が亡くなった時だった。まだ私が小学生の頃だったので、それがどのような意味を持つものか、漠然としか理解できなかった。だから満足に悲しむこともできなかったように思う。ただ周りの人が悲しみに浸っているから、その空気にふれて自分も悲しみに落ちていったという感覚だった。
 自分の子どもたちを観察すると、「死」を通じて悲しみを覚えるというのは、人としてかなり心が成長しなければ難しいことなのだと知った。今年愛犬が亡くなった時、娘はまだ一歳で当然のことながら「死」というものを理解していなかったし、悲しむということもなかった。どうやら他者と深い関係性をつくるまで成長を待たなければいけないらしい。
 思い返してみると、私が初めて「死」によって深く悲しみを覚えたのは、二十歳そこそこの頃に亡くした愛犬に対してだった。その犬は幼少の頃から一緒に育ってきた親友のような存在だったから、私にとってその喪失は大きな打撃だった。その出来事を通じて、私は「死」とはどのような意味を持つのか真剣に考えるようになったと思う。
 もちろん、今でも「死」についてわからないことは多いけれども、一つ言えることは「死」は、残された人々にこそ大きな影響をもたらすということ。大切な人との時間を懐かしく振り返った後、これから進む自分の「生」に強い光が投げかけられる。日常的に息を吸い、食物を食べて、生きることが特別な営みのように感じられる。「死」があるからこそ「生きる」ということを真剣に考えるのだなと最近では思うようになった。
 谷川 俊太郎の詩から生まれた『しんでくれた』は、「死」をユーモアに描くことで、「生きる」ことに光を当てた絵本だと思う。登場する主人公の「ぼく」は、食べ物としてあらわれる、死んでしまった牛や豚、魚に想いを馳せる。そうして、その「死」を食べることによって「ぼく」の「生」へと繋がっていくことを示してくれる。
 普段私たちが食べる食物は、動物であればそのままの姿で食卓に上がるのは珍しいから、少し想像力を働かせなければ、そこに生命があったことすら忘れてしまう。絵本ではよく動物の姿が主人公として、愛らしいものとしてあらわれるのにも関わらず、どこかの誰かが私たちが食べるために彼らを屠殺していることは都合よく隠されてしまう。もしかしたら子どもたちはそうしたことすら教えられないかもしれない。
 諸説あるが、食事前の「いただきます」は、「お命をいただきます」、という意味があると言われている。もちろん、このような事実は子どもたちが知るべきベターなタイミングというものがあるとは思うが、自分たちの子どもには、いずれかけがえのない生命の上に私たちの「生」が成り立っていることは伝えたいと思っている。どのように伝えるか難しいところではあるが、本書『しんでくれた』は、多くの「死」というものがあるからこそ、ポジティブに「生きていく」というメッセージをシンプルに描いている。こうした潔さによって、多くの「死」によって生かされてきたことを子どもたちと一緒にあらためて考えたくなる。子どもにも、大人にもお薦めしたい絵本だ。

 

しんでくれた

うし
しんでくれた ぼくのために
そいではんばーぐになった
ありがとう うし

ほんとはね
ぶたもしんでくれてる
にわとりも それから
いわしやさんまやさけやあさりや
いっぱいしんでくれてる

ぼくはしんでやれない
だれもぼくをたべないから
それに もししんだら
おああさんがなく
おとうさんがなく
おばあちゃんも いもうとも

だからぼくはいきる
うしのぶん ぶたのぶん
しんでくれたいきもののぶん
ぜんぶ

谷川 俊太郎
初出/『ぼくは ぼく』(童話屋)

 

(書評文 | mewl 佐々木新)

 

『しんでくれた』

作 | 谷川 俊太郎
絵 | 塚本 やすし
出版社 | 佼成出版社

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